うちの子流~発達障害と生きる

発達障害を持つ子供たちとの日々をつづります。

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「本人が困っていないなら障害ではない」に感じるもやもや

「発達障害特性を持っていても生き辛さを抱えていなければ障害とは言わない」

このような話がツイッターのタイムラインに流れてきました。

許可をいただきましたのでツイートを引用させていただきます。

※最初の文章に「本人の」生き辛さと記載していましたが、元のツイートにそのような記述はなく私の経験からの誤読でしたので訂正いたしました。ご本人様より「生き辛さとは関係性の問題である」とご指摘を受けました。申し訳ありません。以下の話は元のツイートとは関係なく私と主治医の先生とのお話の中で感じたことを書いております。

ずっと通っていた娘の療育が就学により終了し、別の病院へ療育を受けるためにかかった時のことです。

再度発達検査をし、結果は元の病院と同じくアスペルガー症候群とADHDで間違いないだろうという話でした。

ただ、結果を聞いた時の主治医の先生のお話の中に

「親がいくら困っていても本人が困っていなければ障害ではない」

という話が出たことがあります。私はこのことがずっとひっかかっていました。

自閉症スペクトラムはその名の通り「連続体」でありどこからが障害でどこからが障害でないとはっきり区別することは難しいものだと思います。

その基準の一つとして「本人の生き辛さ」というものがあるのでしょうが

正式に診断が出る出ないは学校で支援を受けたり福祉サービスに繋がったりする上で必要である場合が多く「本人が困っていない」ということで診断がつくつかないの分かれ目とするのであればそれはどうなんだろうと疑問に思いました。

そのことでつぶやいた話が反響があったようなので少し掘り下げてみたいと思います。

娘とほぼ同じ特性を持った夫の話も出てきます。

 

発達障害の特性を持っていても環境がよければ本人が困り感を抱えることは起こらないでしょう。

自然と受け入れられてそのまますくすくと育っていくケースももちろんあるとは思います。

ただ、ツイートにも書いたように特性自体が産まれた時から持っているものなので

それを当たり前だと思って育つわけです。

特に感覚のことなどは人と自分が違うことに気付くのはなかなか難しいものです。

認知の違いがあり同じことをするにも他の人よりとても苦労をしていたとしても

自分にとっては生まれた時からそうなのだからそれが当たり前であって

当然他の人も同じように苦労をしているのだろうと思っていたりします。

なので他の人々が当たり前に出来ることを自分だけが出来ないと

自分の努力不足だと感じてしまい自己嫌悪に陥る事態になるのです。

それを「困り感」として表現が出来るでしょうか?

 

最近は大人の発達障害も急増していると言われますが

知的に問題がなく逆に成績優秀なタイプの発達障害がある人だと

学生時代までは比較的問題なく過ごしていけるケースも多々あり

社会に出た途端、会話や対人スキル、自己管理能力などに問題が生じ

適応が難しくなってから初めて発達障害の診断がつくケースが増えているそうです。

これも「困り感」が出てから障害になったということなのでしょうが

もし、困り感を本人が自覚する以前に、特性があるということで

適切な療育なり支援なり自分の特性のことを知るチャンスがあったとすれば

社会適応がもっとスムーズに行えたケースも多いのではないかと思うのです。

少なくとも社会に出て追い詰められうつ病などの二次障害が出る前に

なんらの対策を立てることは可能だと思うのです。

 

発達障害にはセルフモニタリングが出来にくいと言う特性があります。

気分や体調や特性など自分を客観視することがなかなか出来なかったりします。

子供の場合、10歳前後でメタ認知が身についてくると言われていますが

(メタ認知とは認知を認知するという意味でつまりは自分を客観視する力です。)

それくらいの年齢からだいたいのお子さんは周りがよく見えてきて

その中で自分と言うものがよりはっきりと見えてくるということなのでしょう。

自閉症スペクトラムの特性で自他の境界の曖昧さがあると自分と他人との違いを認知することにも障壁が起きやすいでしょうし

違いが判らなければ自分自身のアウトラインが見えにくいのは当然だと思います。

「自分自身が困っていることを自覚しにくい」

こういう特性を持っているにもかかわらず、

本人が困り感を訴えない限りは障害ではないというのはどうなんだろうと

私は非常にもやもやとするのです。

実際はうちの子供達に本人の困り感の訴えはなくても診断がついており、療育や特別支援教育などのサポートに繋がっています。

うちの子達は「自閉症スペクトラム」という言葉が出てくるDSM-5より以前に診断がついています。

 

それともう一点「親が困っていても」といわれたところです。

親と子の関係の中で、子供の発達障害特性だけで親が困っているケースばかりではないと思います。

親の思う通りに、つまりは親の側が思う「普通」に育てたいと思っていても全くうまく行かないと訴えているケースもあるでしょう。

親の方にもその特性があることも十分に考えられます。

ただ、親の方が子供の養育に関して困っていると訴えているというのは

ヘルプサインなのです。

これはよほどのことがないとなかなか出せるものではないのではと思います。

相談施設や医療機関に我が子のことを相談すると言うのは

もしかしたら我が子に「障害」と言うレッテルを貼ってしまうことになるかもしれないと恐れ、困っていても疑っていても避けて通る人はたくさんいるのです。

その高いハードルを乗り越えてまで相談に来ているのは強いヘルプサインなのです。

実際に私自身もそうでしたから。

このまま親子だけの環境で養育を続けることに限界を感じての訴えでした。

あの時点で専門機関に繋がっていなければあの後どうなっていたか、想像したくもありません。

検査や診察の結果、特性が認められたけども本人の困り感がなければ障害でないと判断され、そのまま何の対応も取られなければ

困っている状況を変えるきっかけは何も掴めないまま路頭に迷うことになります。

親が子供に対して特性に沿った適切な養育方法がわからないから困っているわけで

そのままにしておくことは子供にとって適切な養育環境でないまま育てられると言うことです。

それは決して子供にとってよいことにはならないのではと思うのです。

医療的介入が必要でないと判断されたとしても、保護者が困り感を訴えている以上、

適切な相談機関の介入が必要なのではないでしょうか。

 

仮に本人が困り感を自覚できていないのではなく本当に困っていなかったとしても

周りの人間が困っていると言うことはいずれ当人の困りごとに直結するのではと思うのです。

自分の行動が周りを困らせてしまうことに気付いていない場合

成長に伴い周りが徐々に見えてきた時に、周りの人の反応に気付いた瞬間に

一気に自己肯定感の喪失につながることになりかねません。

それが外の人に対しては大丈夫で、家族に対してのみの行動だったとしても

(うちの娘がこのタイプです。)

 将来独立し、別の家族を持った時に同じような問題が起きる可能性が高いのです。

自分の困り感だけでなく周りの困り感に気付くことがなければ

いずれは孤立し誰からも助けてもらえなくなるのではないでしょうか。

円滑なコミュニケーションのために周りの困難に気付くことは必要だと思うのです。

その為にも本人の困り感がなくても周りが困っていればなんらのサポートは必要だと思うのです。

最初のSaussureさん(@mamiyac330さん)にツイートの引用許可をいただく際に

「精神疾患では周囲が辛いというのも障害であると考えている」と教えて下さいました。

 

「困難や生き辛さを感じない」のは実際に存在しない場合はよいでしょうが

気付いていない、もしくは気付いていても認めていない場合

実際の生活の中で様々なトラブルが生じてしまいます。

自分の困難や生き辛さをよく知って対策を考えることが必要なのではないでしょうか。

私はこういった考えから自分の子供達には自分の特性把握を勧めています。

自分で気付かずに辛い思いをして自己肯定感を下げきってしまう前に

なんらかの手が打てたらよいのではと思っています。

このブログでも何度も書いていますが、

自分の取扱説明書をしっかりと作れるよう育って欲しいと願っています。

発達障害の子に「ちゃんと伝わる」言葉がけ (あんしん子育てすこやか保育ライブラリーspecial)
 

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