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うちの子流~発達障害と生きる

発達障害を持つ子供たちとの日々をつづります。

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合理的配慮は「ずるい」のか 

合理的配慮に関する私の記事にこのようなコメントをいただきました。

 同じクラスに障害者のお子さんがいます。 特別学級もありますが、 全く学習にはついていけなくても クラスには在籍させたい(お母様のご希望で) と聞きました。 合理的配慮で付き添いの先生も配置されました。 これは本当に子供の為なのでしょうか? 法律改正を盾にした親のエゴなのではないでしょうか? 特別学級でその子に合った学習をさせてあげたら良いのにと思う一方、この様な考え自体差別なのかと悩んでいます。 障害で差別される事は悲しい事だと理解はしていますが、 合理的配慮により、遠慮のないやって貰って当たり前的な考えには疑問です。 どう考えたら合理的配慮を心から納得出来るのかと悩んでいます。 障害のない子供達だけのクラスとそうでないクラスでは学習スピードも違うと思います。 なのでそれは将来医者になり障害者を助ける側になる可能性がある子のめを摘み取る行為にも思えます。 障害者にも可能性があるのは理解しています。 しかし障害者手帳により免除されている事も多いと思います。免除も受け、希望も出すのは少し贅沢な気がします。 障害のない子供達は免除のない人生を生きて行く為に学ぶ必要があると思います。 そう考えると皆んな違って皆んな良いという状態での授業は不適切に思えます。 養護学校の数を増やす、特別学級を増やす等の対応では不十分なのでしょうか? 普通の学校に合理的配慮を求めるのは正しいのでしょうか? 

 全文を引用させていただきました。

コメントをいただいた元の記事はこちらです。

nanaio.hatenablog.com

 障害児に対する特別支援教育というものにかなりのもやもやを抱えていらっしゃるのですね。おそらくこの方だけでなく、一般のお子さんの保護者の中にもこのような想いを抱えていらっしゃる方は数多くいらっしゃると思います。

逆に、これから合理的配慮を受けたいと思っている困難を抱えたお子さんの保護者の方も、配慮を受けることで周りからこのように思われるのではないかとご心配をされている方も多いでしょう。

そのもやもやに対して、現在特別支援教育として配慮を受けている子供の保護者として私個人の考えを回答させていただきます。うちは発達障害を持つ長女は通常学級で、長男は支援学級でそれぞれ配慮を受けています。

まず、前提として合理的配慮を勘違いされているのではと思われる部分からお話したいと思います。その後にいただいたコメントに対しての返答をさせていただきます。

 

どの子供たちにも教育を受ける権利があること

 まず、子供たちには、障害があるなしに関わらず、等しく教育を受ける権利があります。(同じ教育を受ける権利というわけではありません)

障害がある子供が教育を受ける権利を行使するために、障害がない子供たちの教育を受ける権利を阻害する権利はありません。逆も同じで障害がある子供が教育を受ける権利を他の子供が阻害する権利もありません。

つまり、障害を持とうが持つまいが、他者の教育を受ける権利を邪魔する理由にはならないということです。

「合理的配慮」とは無条件に障害者に配慮せよという法律ではありません。教育現場においては、もちろん他の子供たちの学ぶ権利を阻害しないように配慮した上で、困っている子供たちの学びの権利を保障するため可能な配慮を探り、合意に達した上で行われるものです。

上記の私の書いた記事の中にあげた合理的配慮の具体例として、タブレットやイヤーマフの持ち込み、宿題への配慮などをあげましたが、どれも他の子供の教育を受ける権利を邪魔するようなものはなかったはずです。

しいて言えば、他の子供たちとは違うものを使っている、違うことをしているというだけで、気になる子が最初は出てくるであろうということくらいでしょうか。個人的に違う学び方をしているというのは他の子供の邪魔をすることではありません。

みんな同じでないと許せないと思うのは、根底に(自分も我慢しているのにずるい)という気持ちの現れなのでしょう。全てにおいて元々持つ能力が等しいのであれば、それはずるいのかもしれません。しかし、障害を持つということは努力だけではまかなえない困難があるということです。これは視力が悪い子供に対して「眼鏡をかけるなんてずるい」というのと同じことだと考えていただければよいと思います。

平等と公正の違いについて説明した有名な絵があります。

f:id:nanaio:20160520051822p:plain

【追記あり】「平等」と「公正」の大きな違いが1秒で納得できる画像 | BUZZAP!(バザップ!)

左が平等、右が公正です。ひとりひとりの困難に応じて眼鏡をかけるのも、補聴器をつけるのも、合理的配慮を受けることも、同じく公正を目指そうとしていることなのです。

それはずるいことなのでしょうか?眼鏡をかけた子供は視力のよい他の子供より多くのものが見えますか?

発達障害の一つである読字障害を持つ子供が、みんなと同じ教科書では読みにくいからタブレットで電子教科書を使うことがずるい配慮でしょうか?集中力に生まれつきの問題を抱えるため、みんなと同じ宿題をするために人の何倍も時間も努力も要する子が人と違った宿題で学ぶことがずるいことなのでしょうか?

目に見えない障害だから納得がいかないのでしょうか?

 

発達障害児が通常学級で学ぶということ

同じクラスに障害者のお子さんがいます。 特別学級もありますが、 全く学習にはついていけなくても クラスには在籍させたい(お母様のご希望で) と聞きました。 合理的配慮で付き添いの先生も配置されました。 これは本当に子供の為なのでしょうか? 法律改正を盾にした親のエゴなのではないでしょうか? 特別学級でその子に合った学習をさせてあげたら良いのにと思う一方、この様な考え自体差別なのかと悩んでいます。

 この障害を持つお子さんがどのような困難を抱えていらっしゃるか細かいところまではわかりませんが、このコメントの内容から学習面の困難をお持ちのようですね。

私の個人的な考えもコメント主さんと同じく、学習は学校生活の主役でありわからない授業を受け続けることはお子さんにとってたいへん苦痛なものだと思います。可能であればそのお子さんに添ったわかる授業を受けさせてあげたいですね。

ただ、その保護者の方やお子さんがどのようなお考えで通常学級に在籍させていらっしゃるのかはわかりません。学校は学ぶためのところですが、学ぶものは勉強だけではありません。人との関わりによるコミュニケーション能力、集団生活による社会性、これらは大人になりいずれ社会に放り出される子供たちにとって学習よりも生きていく上で大切なこととなっていくはずです。このことを考えて通常学級に在籍されているのかもしれませんね。

わが子の障害を受容するというのは大変困難な場合が多く、もしかしたらみんなと学ぶことで「普通」になってほしいと思っていらっしゃる場合もあるでしょう。お子さん自身がみんなと一緒がいいと言っている場合もあるでしょう。

私がADHDと自閉症スペクトラムを持つ娘を通常学級に入れるという決定をしたのは、娘本人の意志、就学前の幼稚園などでの様子、療育や医療関係など専門家の意見を伺い、集団である通常学級で学ぶことがこの子にとって適当であると判断したからです。

娘は知的な問題はないため、授業についていけないなどの困難はありません。いま小学5年ですが、療育や医療、通級指導教室などの支援を受けてきたおかげなのか、他児とトラブルになったり授業の邪魔をするようなこともありません。ただ繰り返しが苦手なために宿題をするのが困難であったり、女子グループなどの付き合いが苦手なために休み時間は一人で好きなことをして過ごしているので先生に配慮していただくことはあります。

現状では、発達障害児の場合、通常学級に在籍するか支援学級に在籍するかは、保護者の同意の下で就学判定によって決められる地域と、就学判定は特になく保護者の意思によって決められる地域があると思います。

これは今年度の障害者差別解消法によって決められたものではなく特別支援教育が始まったときからのものです。そして、特別支援教育が始まる以前は、今の知的学級に相当するものはありましたが、知的障害がなかったり軽度である発達障害児が入れる情緒学級は存在しませんでした。つまり元々通常学級にいたのです。発達障害は最近になって沸いて出てきたわけではなく知られていなかっただけで、それまでも通常学級の中で困っていたのです。おそらくコメント主さんが学んだ時代にもクラスの中にいたでしょう。特別支援教育がはじまり選べるようになったにすぎないのです。

それを他者が支援学級で学べばいいのにと思うことは自由です。ただそれを他者に向かって言うべきことではないと思います。それは明らかに他者の権利の侵害です。

例えば、見た目でとても痩せている人がスーパーで低脂肪牛乳を買っていたとしましょう。(そんなに痩せているんだから普通の牛乳にすればいいのに)と思うかもしれません。思うのは自由です。それを「あなた痩せすぎだからこっちにしなさい」と事情をよく知りもしない他者が強要すれば、それは自由の侵害であり暴力です。

思うだけで「差別なのか?」に関しては、その根底に排除したい意識があるのかどうかによると私は思います。そのお子さんにとってそのほうがよいのではと思うのか、それとも障害児というだけでわが子と一緒に学ばせたくないと思っているのか。

差別意識というものは誰の心の中にも存在するものだと私は思っています。それをまるで自分には存在しないとばかりに繰り広げる無意識の差別ほど人を傷つけます。コメント主さんのように、それが差別意識なのかどうか、ご自分に向き合われることは素晴らしいことだと思います。

 

 障害で差別される事は悲しい事だと理解はしていますが、 合理的配慮により、遠慮のないやって貰って当たり前的な考えには疑問です。 どう考えたら合理的配慮を心から納得出来るのかと悩んでいます。  障害のない子供達だけのクラスとそうでないクラスでは学習スピードも違うと思います。 なのでそれは将来医者になり障害者を助ける側になる可能性がある子のめを摘み取る行為にも思えます。 

例えば、健康な子供と、アレルギーを持った子供がいたとしましょう。健康保険はみんなで支えあうというシステムです。「うちの子は風邪を引いたときくらいしか病院にかからないのに、あの子はアレルギーでいつも病院に通って薬をもらっている。健康保険使いすぎてずるい。当たり前に病院にしょっちゅう行くなんてずうずうしい」と言いますか?たくさん病院に通うことで、そのお子さんは得をしているのでしょうか?

合理的配慮を「遠慮のないやって貰って当たり前的な考え」と捕らえるのはこれと同じだと私は考えます。公教育の場において元々どの子供も公正に学ぶ権利は存在するのです。

 

「障害のない子供だけのクラスとそうでないクラスは学習スピードが違う」

支援学級の場合はその子供に合わせた学習進度にすることがある程度認められています。しかし、通常学級である限り、文部科学省が定めている学習指導要領に沿って授業が進められているはずです。通常学級の場合、クラスに障害児がいようがいまいが他の子供たちの学習が遅れることにはなりません。

 

「なのでそれは将来医者になり障害者を助ける側になる可能性がある子のめを摘み取る行為にも思えます。 」

お子さんの在籍しているクラスでは通常学級であるにもかかわらず、学習に遅れのある子供に合わせた授業の進み方をしているのでしょうか?もしそうであれば、他の子供たちの学ぶ権利の侵害ですね。学習指導要領に則った進み方でないのであれば学校や教育委員会に苦情を申し立ててよい話だと思います。公教育においてはそのような通常学級は私は聞いたことがありません。

そして公教育において将来医者になるような賢いお子さんに合わせた教育も行っていません。あくまで学習指導要領に沿って授業が進められているはずです。

支援学級に通う小学3年の息子は、数学検定3級(中学3年程度)を取得し現在高校数学を学んでおりますが、学校では小学3年の算数の授業を受けています。支援学級であっても学習指導要領以上の学習を教える義務は学校にはありませんから。(学校によっては支援学級では配慮をしてくださるところもあるそうです。)

「将来医者になり障害者を助ける側になる可能性がある子」が健常児に限る前提で話されているのはなぜでしょう?

発達障害という概念は非常に幅広く、いろんな困難を持ったお子さんがいます。

中には平均よりずば抜けた知的能力を持つ場合もあることをご存知でしょうか?

現在医学部で学ぶ医者の卵の方にも、すでに医師免許を持ち活躍されている方の中にも発達障害の特性を持ちながら社会に適応されている方も現実にいるのです。

 

  障害者にも可能性があるのは理解しています。 しかし障害者手帳により免除されている事も多いと思います。免除も受け、希望も出すのは少し贅沢な気がします。 障害のない子供達は免除のない人生を生きて行く為に学ぶ必要があると思います。 そう考えると皆んな違って皆んな良いという状態での授業は不適切に思えます。 

 この国に暮らす全ての人々は社会の恩恵にあずかっています。子育て支援も、義務教育という名の元に公教育を受けられるのも、全額負担でなく医療にかかることができるのも、警察や消防などがあるのも全ての人々の安全で安心な暮らしのためにあります。

社会福祉というものも、同じく誰もが安心して暮らせる社会のために存在します。

今、あなたは健康で税金も納め、社会に対して施す側の人間だと思っていらっしゃるかもしれません。

それは永遠に保障されていることでしょうか。誰でもいつ事故に合い、病気になり、年をとり、障害者になるかはわからないのです。全ての人が安心という恩恵にあずかっているものが社会福祉だと私は考えます。

発達障害児は全て障害者手帳や療育手帳を取得しているわけではありません。私の子供たちは発達障害の診断を受けていますが、どちらも取得できません。基準に達していないからです。

おそらく不適応な対応やいじめなどにより重い二次障害に至らなければ、私の子供たちは障害者ではなく一般人として社会に出ることになります。

手帳を取得しているというのは生きていく上で一定基準以上の困難があると認められた場合です。それは手帳による優遇があったとしても、困難がなくなるわけではありません。どんなに努力しようとも、その支援がなければ憲法で保障された人間としての暮らしが危ぶまれる状態にあるということです。いつ、誰がその状態に陥るかわからないのが人間です。あなたは死ぬまで社会福祉のお世話にならないと言い切れますか?

 

「障害のない子供達は免除のない人生を生きて行く為に学ぶ必要があると思います」

では障害のある子供は、困難を抱えたまま生きていくために学ぶ必要はないのでしょうか?全ての子供が学ぶ必要があるから義務教育というものがあるのではないでしょうか。

「そう考えると皆んな違って皆んな良いという状態での授業は不適切に思えます。 」

そもそも障害があろうがなかろうが人はみんな「違う」のです。産まれた瞬間から、家庭環境も個人の能力も性質も全て違うのです。

貧困家庭の子供が学校に通うための費用の一部を援助する仕組みも社会福祉です。

障害児を排除した健常児だけのクラスであればみな学習能力は同じなのですか?全ての子供が同じであることが「良い」ことですか?

発達障害児とはおおざっぱに言えば、個人の能力の中の凸凹が大きい状態です。

得意不得意は誰にでも存在するものです。誰でも違った凸凹を持ちます。

その違いを賞賛するわけでなく排除するわけではなく、容認することが「みんな違ってみんな良い」という言葉です。

眼鏡をかけて授業を受ける子がいてもいいように、タブレットを使って授業を受ける子がいてもいいのではないでしょうか?支援員さんがサポートしながら学ぶ子がいてもよいのではないでしょうか。それは他児の学びの権利を妨害することにはなりません。

合理的配慮で授業自体を学習の遅れのある子供に合わせろという話ではないはずです。場合によっては予定や授業をいろんな認知の子にあわせて視覚化したり、わかりやすくしてもらう工夫もあるでしょう。それは障害児に限らず、全ての子供にとってもわかりやすい授業となるはずです。

特別支援教育の恩恵にあずかっているのは障害児だけではありません。

文部科学省では2020年までに全ての小中学校の児童生徒全員にタブレットを用いた電子教科書の配布を目標にしています。これは障害があるなしに関わらずさまざまな認知特性をもった子供たちに多様な学びを提供するために行われます。普通のお子さんであっても、タブレットでの学習が効果的なのは昨今の通信教育でも証明されていることです。(当初学校ではどのように活用されるかはこれからの課題ではありますが)

このことにも特別支援教育の理念が関係しています。

その他、一般の小学校中学校に特別支援教育の理念が浸透していることで、学級崩壊、いじめ、不登校などの対応に、特別支援コーディネーターやスクールカウンセラーが対応することもあります。

学校での問題はすべて障害児が起こしているのでしょうか?私はそうばかりとは思えません。障害児というくくりの中にいないお子さんであっても様々な問題や困難を抱えているのです。

実際、昨年度の息子の交流学級では(息子は交流学級として支援学級と通常学級を半々で学んでいます)健常児とされているお子さんがストレスのせいなのか不適応な状態に陥り、授業が成り立たない時期がありました。それで息子が学校に行きづらくなったのですが、支援員さんやサポートの先生が何人もそのお子さんを支えてクラス全体の学習も持ち直しました。特別支援コーディネーターや管理職をはじめとするチームを組み対応してくださったようです。そのお子さんは特別支援教育の対象ではありませんが、学校の特別支援教育の体制が支えた形となりました。そのことで障害児である息子が受けた支援といえば、そのお子さんが暴れることで怖くなったら先生にサインを送り支援学級に逃げても良いよというだけです。

公教育の場において、集団の社会生活を行いながらも個への対応という概念は多くのお子さんにとって有益なものとなるはずです。これが「みんな違ってみんな良い」ということです。

 

 養護学校の数を増やす、特別学級を増やす等の対応では不十分なのでしょうか? 普通の学校に合理的配慮を求めるのは正しいのでしょうか? 

 

養護学校というのは今の特別支援学校のことですね。ちなみに特別支援学校に入学するには身体の障害があるか、知的障害であって療育手帳を取得していなければなりません。発達障害と知的障害は別の障害であり、併発している場合もあります。

知的障害を持たないもしくは軽度である発達障害児は特別支援学校の対象ではありません。そもそも特別支援教育が始まる前は、普通の学校に普通の子として存在していた子供たちなのですから。 

困難に応じて、文科省や自治体が決める範囲の中であれば普通の学校に設置された特別支援学級も選ぶことができるようになったにすぎません。

コメントには免除を受けているのにその上支援を求めるのは贅沢だというお話がありましたが、特別支援学校、特別支援学級は、人数が少なく制限され先生を多く配置しますので、普通学級の何倍もの予算がかかります。特別支援学校の場合は10倍と言われています。自治体や国が教育にかける予算に限りがある以上、簡単に増やすということはできません。すでに支援学校はどこもいっぱいだと思います。

障害者は贅沢だというお話なのか、障害児が一緒に学ぶのは不都合だから予算がかかっても別のところに行ってくれというお話なのか、これではどちらなのかわかりません。

イラスト版 発達障害の子がいるクラスのつくり方―これが基本子どもが困らない35のスキル

イラスト版 発達障害の子がいるクラスのつくり方―これが基本子どもが困らない35のスキル

 

 

「普通の学校に合理的配慮を求めることは正しいのでしょうか?」

障害者と呼ばれる人たちは一定数社会の中に存在します。発達障害という概念が知られる以前から、発達障害児たちは存在し普通の学校に通っていました。困っていても見過ごされていただけにすぎません。見過ごされたことで心に大きな傷を追い、大人になっても社会生活に困難をきたしている場合も少なくはないのです。配慮があれば多くを学び社会性を身につけ、長じて社会に還元できる可能性をもつ子供もたくさん存在します。それを支援していくのが特別支援教育であり、合理的配慮です。

社会に還元ができない状態であっても、他者がその人の人生や命や学ぶ権利をジャッジすることはできますか?それが差別というものです。

合理的配慮により、他児が不利益をこうむっているのであれば、それは「合理的」ではありません。

繰り返しますが、合理的配慮とは、障害があるからなんでも配慮しろというものではありません。他の子供たちの学びを妨害する権利ではありません。

学校においても社会においても、配慮を受ける側と配慮をする側の合意に基づいて行われるものです。

直接の不利益をこうむっていないかぎり、他者がその是非をジャッジすることではないと思いますがいかがでしょうか。

納得がいかないというのは、同じでないと気に入らない、「ずるい」という感覚があるからではないですか?ずるいと思われる背景には、ご自分が抱えていらっしゃる様々な環境に対してしんどい、大変だとストレスを抱えていらっしゃるのではないでしょうか。視力に困難を抱える人が眼鏡をかけたり点字や音声教科書で学ぶのは許せても、発達障害児が抱える困難への支援は特別待遇にしか見えませんか?

スズコさんの記事がこの「ずるい」という感情を深く掘り下げていらっしゃるのでリンクさせていただきます。

suminotiger.hatenadiary.jp

文部科学省の調べによると発達障害と思われる児童は通常学級の中に6.5%ほどいるとと言われています。支援学級を含めればもっと数字があがることになります。

知らないだけで当たり前に身の回りに存在しているのが発達障害という障害です。その他の様々な障害を含めれば障害を持つ人々はもっと身近に存在しています。

学校制度の中で分けてしまえばいいとおっしゃるかもしれません。でも社会の中に存在する以上、お子さんが社会に出て一生涯障害を持つ人々と関わらないでいることは不可能です。そして誰もがいつ障害を抱える身になるのかもわからないのですし。

普通の学校とは、普通の子供を隔離するためにあるわけではないのです。社会に出るために学び、人と関わり、集団の中で小さな社会を経験するためにあるのです。

多様な人の中で社会を学ぶということも将来の自立のために学校生活の一つの役目ではないでしょうか。

人は誰でも誰かに迷惑をかけ、迷惑をかけられ、支えられ、支えて生きています。それが社会というものだと私は理解しています。

普通の学校にいる普通の子供にも、いろんな能力差があり、いろんな人格があるのです。発達障害児と呼ばれる子供たちもそれは同じなのです。

学びやすい方法、学びやすい道具がそれぞれ「違う」のは障害を持つ子も持たない子も「同じ」です。困難が大きいのであれば、学校教育を学ぶために合意に基づいて別の道具を使ったり、支援員さんの手を借りることがある、それが合理的配慮です。

 そしてそれは他の子供たちの学びの選択を広げることにも繋がっていきます。

 

このコメントをいただいて、コメントを下さった方のもやもやもとてもよく伝わりましたし、こういう疑問をもたれるかたも多いことだろうと思いました。

そして障害に関わる人たちと、そうでない周りの方々との温度差に私自身ももやもやしました。

それでも、このコメントを下さった方は、ご自分の中にある感情が差別なのかどうか、ご自分に向き合って考えてくださっています。それはとてもありがたいことだと思いました。私の中にも知らないことで起きる差別感情はきっとたくさんあるのだと思います。そこから目をそらさず考えて生きて行きたいなぁと思っています。

どう感じるか、どう思われるかは個人個人の自由です。それでも、少しでも理解をしていただける方が増えて欲しいなというのが私の願いです。そのためにも微力ながらこのブログで発信を続けていきたいと思います。

それぞれのすれ違いを知り解消することで、全ての人が、全ての子供たちが少しでも生きやすい世の中になることを祈っています。

※追記※ 再度コメント主さんからコメントをいただいたので記事を書きました。

nanaio.hatenablog.com

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